彼の理想の田園へ

日記と妄言、活動記録。

【読書感想】『涼宮ハルヒの憂鬱』刊行20周年に寄せて(2023.06.12)

目次:

1. はじめに

 サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいいような話だが、それでも俺がいつまでサンタなどという想像上の赤服じーさんを信じていたかと言うとこれは確信を持って言えるが最初から信じてなどいなかった。

 それは単に俺の家にとって文化的な意味でのクリスマスが新幹線という近代文明の象徴が影も形も無かった頃の東京-大阪間ほども縁遠いものだったために12月24日というのは単に"寿司とケーキが食べられるイベント"くらいの認識しかなかったからであり、別に俺がサンタを信じているか信じていないかを常日頃から思索するようなスレたガキだったとか賢しいお坊ちゃまだったとかそういうわけではない。

 その証左に、と言うにはあまりにも恥ずかしい記憶だが、かわりに俺は小学校をあがる頃まで本気で『錬金術師』と名乗る技術者がいて身の回りの構造物の形を自在に変えたり壊したりしているのだと信じていた。もちろん俺の周囲にはそんな連中は影もなかったがこの世のどこかにはもしかしたらいるのだろう、いやむしろ絶対いてほしーという思考を持っていたことをおぼろげながら覚えている。だって当時の俺が読んでいた漫画や観ていたアニメ、めちゃくちゃ面白かったしな。

 ここまで書いただけではただガキの頃の俺の頭がふつうよりちょっとおめでたいだけになってしまうので注釈を入れさせてくれ。これだけははっきりと思い出せるが、某錬金術師にドハマりしてた頃の俺は親父に向かって興奮しながらも率直に「この技術は本当に存在するものか?」と聞いた。そしたら子供の頃は畏怖の対象でしかなかった親父は普段見せないような違和感のある薄ら笑いで「世界のどこかには本当にあるんだよ」と返しやがった。親父の言うことなら信じるしかない。しょうがないだろ?

 今なら少しはわかる。自分でもよくわかってないであろうに12月24日の夕食をわざわざ謎に豪華にしたり、現実とフィクションの境界がまだわからず暴走しているイタイ自分のガキをなだめたりしていた親父も大変だったんだなと。なるほど、親の愛ってのはそれを受け止める側が成長して初めて理解できるものらしい。

 その後のことはあまりにも本題とかけ離れるため割愛するが、そんなこんなで自我のおもむくままに暴走しては親や学校関係者に物質的損害を出したり精神的困惑をもたらしたりしながら小学校を卒業し、中学生になった俺に人生の転機が訪れた。

 2023年現在まで続いているのかはたまたもうとっくに途絶えた文化なのかはわからないが、俺が中学生の頃には学校でときどき色々な本の紹介が載ったペラ紙と封筒が配布された。これは何かというと、リストの中から欲しい本を選んでその旨を記入して封筒の中に現金と一緒に入れて担任まで提出するとのちにその本が学校まで届くという画期的なのか回りくどいのか判断に困るシステムである。

 今となってはそれが読書に親しんでほしいという市や学校の施策だったのか当時としても苦境だったであろう町の書店の必死の売り込みだったのかは定かでないが、俺は小学生の時からこの方式でよく本を買っていた。その頃すでに『エルマーのぼうけん』や『ああ無情』などの児童文学史に大きく名を残す名著に触れていた俺はさらなる感動を求めていた。

 いったい世界にはどれだけの本があるのか。よく「学校の図書室の本を全部読んだ」などという子供の本好きを喧伝する際に使われがちなほぼ嘘としか思えねー定型句もあるが、実際のところ俺はどれだけあるか数えることも不可能な数の本の大半をその表紙を目にすることもできず人生を過ごしていくんだろうな。

 そんなことを頭の片隅でぼんやり考えながら俺は書影と紹介文つきのA4コピー紙に目をやり――、

 『涼宮ハルヒの憂鬱』と出会った。

 

2. 2009年の感想

 出会ったとは言うものの、正直そんな昔のことはほとんど覚えていない。だって別に律儀に日記に書いていたわけでも読書感想文に書いたわけでも俺が実は世界にも稀な超人的な記憶力を持っている人間であるわけでもないしさ。だから内容に関する当時の感想は覚えてねー、ただ衝撃的だったということだけは覚えてるみたいな薄っぺら過ぎてまるで一般人の映画の一言感想をまとめたCM映像的な情けないことになってしまう。

 しかしナントカ記憶って言うのかはわからないが、読んでいた本の感想は覚えていないがその本を読んでいた状況のことは覚えているから人間の脳ってのはよくわからないもんである。

 ここで話がプロキシマケンタウリほどにまで飛んでしまうが、俺の通っていた田舎の中学校は生徒数が少なく常設の陸上部が無かった。そのかわりどうしても自分が陸上競技をやりたいだけの妙にやる気のある体育教師が大会前に期間をとって特設の陸上部を開き、各学年各クラスから独断で生徒を勧誘して練習と大会への参加をさせていたようだ。

 そんなわけで俺は件の体育教師からおだてられ、たいした実力があるわけでもないのにほんの一時期その特設陸上部の活動に参加していた。中学生の頃の俺はやたら体力だけは有り余っていたらしい。今じゃ見る影もないけどな。

 そのうち陸上競技の大会が県内で行われることになったんだが、場所は俺たちの学校から電車で一時間以上もかかるような所だった。今でもここだけは思い出せるぜ。同行するのは他クラス他学年から選ばれたほとんど関わりもない連中と引率の教師、長時間かけて見知らぬ土地へ行って緊張で吐きそうになりながら競技に参加する。そしてパッとした成績も残すわけでもなく大会を終え、また長いことかけて電車で帰る。はっきり言ってかなり憂鬱だった。

 その帰りの電車の中で他のメンバーから少し離れたところで読んでいたのが何あろう『涼宮ハルヒの憂鬱』だったわけである。その頃はスマホなんてものも無かったし、賢しい俺は電車内で時間を潰せるものをちゃんと用意していったのさ。そんなことをしなくても俺以外の奴らは大会後どこにそんな元気が残っているのか無限に楽しそうにおしゃべりをしていたけどな。心身ともに疲れ切っていた俺にはキツ過ぎるほどのオレンジ色の西陽がデカい車窓から容赦なく差し込んでくる光景が今でも脳に焼きついている。

 なんとも不思議な取り合わせだが、俺にとって一番古い辺りの『涼宮ハルヒの憂鬱』の記憶はそんな少年の日の嫌な思い出とセットになっている。確か既に何度目かの読み返しで、ちょうど長門がマンションの自室で無限にトンチキな宇宙話を展開していた場面だったような気がする。

 

3. これまでの13年間

 ここでふと立ち止まって冷静に自分の文章を読み返してみると我ながら呆れてしまうほど内容の無いどーでもいい昔話になってしまっていた。申し訳ない、この章でもう少し俺の個人的お気持ちを書き連ねてその後からようやく本題になっていく予定だからなんとか許してほしい。

 初めて『涼宮ハルヒの憂鬱』に出会ってから俺は順当に続編を読み続け、2011年06月15日発売の『涼宮ハルヒの驚愕』については発売日にオフクロの運転する車で本屋に連れて行ってもらって買ったのを覚えている。そういやあれも確か陸上大会の帰りだったっけな...。

 その後はTVアニメを観たり映画『涼宮ハルヒの消失』を観たりしながら中学から高校への移り変わりの時代を過ごしていたのだが、この頃には俺は涼宮ハルヒのことが完全に好きになっていた。とは言ってももちろん俺はハルヒキョンには早く結婚してほしいしできることならその式の末席に加わりたい派閥ではあるが、それとは別に思春期の真っ最中に直撃したハルヒの思考や振る舞いにはある種の共感や羨望を覚えずにはいられず、俺自身の意識が作品に没入するほど夢中になってしまったわけだ。見た目もかなり好みだし。

 しかしそこから先は広く明らかになっている通り、『涼宮ハルヒの驚愕』発売から9年以上も次巻が出ることはなかったが俺はその間もハルヒを好きであり続けた。季節が移ろい一周して何度また春がやってきても新巻が出ることはなかった。まるで世界からハルヒが消え去ってしまったかのような気さえしたが、その実俺は別の意味で安心感を覚えていた。

 それはまったく進展がないことで逆に自然にハルヒを好きでい続けられたからだった。世の中のオタク連中のようにせわしなく「嫁」だの「ママ」だの言い続ける必要がなかったからだった。初めて出会った中学生の頃のように、心の奥底で変わらず楽に自然体にハルヒを好きでいられる。俺にとってハルヒは『いつまでも待たせてくれる最高の女』だったのさ。

 ――などととここまで言っておいてなんだが、あれは確か2018年辺り、俺が大学4年生の頃にはなんとその熱は完全に冷めていた。理由はきっと特にない。ただ単に年月が経ち過ぎたからだろう。かと言って別に他に熱烈に好きなキャラクターがいるような時分でもなかったから当時の俺は本当に何事にも興味のない年頃だったのだろうよ。

 だから2018年に発刊された『ザ・スニーカーLEGEND』の短編はギリギリ買って読んだが、その後2020年11月25日に発売された最新巻『涼宮ハルヒの直観』は買ってすらいない。触れ込みを読んだ感じなんとなく「これたぶん話の本筋は進まねーんだろうな」と思っちまってぐだぐだしているうちにあれよあれよと月日は過ぎ去ってしまっていた。

 いったいどうしてこうなったんだろうね?

 

4. 2023年の感想

 そしてようやく現在の話であり本題の『涼宮ハルヒの憂鬱』の読後感想の話に入らせてもらう。実のところ2023年6月6日が刊行の20周年にあたることは昨年から意識していたが、だからと言って特に何か準備するでもなくいつもとまったく変わらぬ凡人ライフを過ごしてきた。

 一応この近辺に合わせてまた読み返してみるかとネットショップで探し、首尾よく新たに一冊買い直したのである。元のスニーカー文庫版も思い出やら挿絵やら込みで魅力的だったが、せっかくだから今回は2019年に発売された角川文庫版を買ってみた。この時期に『憂鬱』~『驚愕』までがすべて新装で出ることは知っていたが、この頃は前述のとおりまったく関心を失っていた時期であり当然ながら買うことはなかった。

 今回久し振りに読み返してどうしても消化したいことが3つあったので、この先何年後かにまた自分で振り返る意味も込めて書き残しておくことにする。人の記憶ってのは時が経つほどに美化されていってだいたい当てにならないというからな。

 なお以下の文章は『涼宮ハルヒの憂鬱』を元に書いたものであり、その後の続編の内容はほとんどというほど忘れてしまっているため事実の認識誤りもあるかもしれない。そこはすまん。

1. ハルヒは『不思議探索パトロール』に何を願ったのか

 まさに「何が探索だ」という話だが、作中中盤にSOS団全員で休日の市内を散策する『不思議探索パトロール』というイベントがある。このシーンは誰がどう読んでも"普通の高校生の普通の幸せ"を書いているものなわけでしかもわざわざ5人をランダムに2つの組に分けさせている。そこまで場面を整えておきながら2回の組み分けでハルヒキョンが一緒になることはなかったんだから話がややこしい。

 俺だってすぐに引っかかったさ。わかるだろ? もしハルヒキョンとぶらつくことを一番に望んでいたってんなら、ランダムな組み分けの抽選でわかりやすくキョンと二人組になってどこへなり"探索"へ繰り出すことになっていたはずだ。

 クジの結果、今度は俺と長門有希の二人とその他三人という組み合わせになった。

「・・・・・・」

 印の付いていない己の爪楊枝を親の仇敵のような目つきで眺め、それから俺とチーズバーガーをちまちま食べている長門を順番に見て、ハルヒペリカンみたいな口をした。

 それとも何か? せっかくの休日を最後にやってきたキーパーソン・古泉一樹との面談に充てたかったということなのか? それはキョンとの散策よりも優先されることようなことなのかね。いや別に俺も古泉は良い奴だとは思うけどな。

 答えはノーだろう。昔読んだ時には見逃していたんだろうが、流石に今ならすぐわかった。上記の引用文の直前に普通に正解が書かれている。

 無造作に手を一閃させ、古泉が、

「また無印ですね」

 白すぎる歯。こいつは笑ってばかりいるような気がするな。

「わたしも」

 朝比奈さんがつまんだ楊枝を俺に見せた。

キョンくんは?」

「残念ですが、印入りです」

 ますます不機嫌な顔で、ハルヒ長門にも引くようにうながした。

 明らかにハルヒキョンの反応に対して不機嫌になっている。つまりハルヒは「キョンと一緒に行動することができないこと」に不機嫌になったのではなく「キョンハルヒと一緒に行動することができないことを微塵も残念がらないこと」に不機嫌になったんだろう。

 そう考えれば俺の中の個人的もやもやもようやく整理される。世間の大半の人間にとっちゃ今さらって話かもしれないが、こういうのは自分で考えて納得するのが気持ちいいもんだから許してくれ。ハルヒは『不思議探索パトロール』に何を願ったのか。それは「"学校の外"といういつもと異なる世界において、新鮮な気持ちでキョンの率直な姿を見たい」ってところだろう。多分な。

2. なぜクライマックスの舞台が学校であったのか

 「学校が舞台の物語なんだから学校で話が進んで学校で話が終わるのはあたりめーだろ」なんて思われるかもしれない。これについては我ながら納得できてしまうので特に何も言えない。終。

 なーんて自問自答で終わらせてしまうのはあまりにもマヌケなので続けるが、最終局面の閉鎖空間と化した学校のシーンは本当に最高だ。孫にも語り継ぎたいくらいだと言ってもいい。それほどの名場面だと俺は思う。

 実のところこのチャプターの答えはかなりストレートなもんだと思う。なぜクライマックスの舞台が学校であったのか。それは「ハルヒにとって学校が世界のすべてになっていたから」ではなかろうか。

 自分の話に置き換えればある程度は納得できる気がするが、今振り返れば俺もそうだったんだろうと思う。特に高校生の頃には学校や部活が思考の中心だったし、そもそもそれ以外の時間自体が少なかったしさ。

 だけど果たしてその渦中にいる現在進行形のうら若き学生諸君がどう思っているかはわからない。中で暮らしている奴らはそれが当たり前だからそういう意識は無いのかもしれんしな。ぜひ当時の俺に聞いてみたいもんだ。

 そんなわけだから流石のハルヒにとっても学校生活が世界のすべてだった、正確には世界のすべてになっていったんだろうよ。ああ見えてハルヒも案外常識的だってのは古泉も言ってたからな。

「彼女は言動こそエキセントリックですが、その実、まともな思考形態を持つ一般的な人種なんです。」

 常識的かつキョンがいたからこそあくまでベースは学校生活に置きつつ、周りから宇宙人やら未来人、超能力者を自分の方へ引っ張ってきたように思える。逆にムー大陸かなんかがこの時代になって突如海面に再浮上してそこがハルヒ的世界の中心になられても迷惑なわけだが。

 以上を踏まえればクライマックスで閉鎖空間が学校敷地内を覆うように発生したのも、光の巨人が校舎を破壊していたのもずいぶんエモく感じては来ないだろうか。あれはおそらくハルヒにとっての『世界』の再確認とその破壊の確固たる意志表明だったんだろうぜ。この辺に関しては「まあそうなんだろうな」とは思いつつ、改めて読んでいたく感動したからどうしても書きたかったのさ。

3. 『異世界人』とは誰なのか

 最後の最後に有『ハルヒ』史以来最大にして最深と言われている、逆に言えば最もベタベタな話題になってしまうがこればかりはもう俺はとっくに観念しているためしょうがない。とは言ってもその件についてはさんざあらゆるところで考察がされているんだろうが、2023年現在においても俺はそれらをほとんどまともに読んでいないし別に公式に言及されたわけでもない(よな?)のでここはフレッシュかつゼロベースで気ままに好きなことを書いていきたい。

 では異世界人』とは誰なのか。それはキョンである。......などと書いてしまうとあまりにも素朴かつ今さらな結論で呆れられてしまうかもしれない。わざわざもったいつけといてそりゃないぜ。書いた俺だってそう思う。ましてやこんな単純な文章なら小中高大の学生生活を経てついぞ理解することができなかった英語でだって書けそうな気がする。無理か。『異世界人』の単語がわからん。

 この手の『考察』というものにおいて俺は作者が言っていないことについて究極的には証拠なんてのは無いと思っているクチなのでこれはあくまで印象ということで好き勝手書かせてもらうが、あの作中は俺たちがいる世界とは異なる世界、つまり異世界なんじゃないかと思う。いやライトノベルなんだからそんなこと当たり前だろ、はっはっは。いやーよかったよかった。

 ......違った。俺が本当に言いたいのはそういうことじゃない。『涼宮ハルヒの憂鬱』はかつて俺たちのいる世界とともにあり、『3年前』の件によって異世界へと変貌したんだろうってのが今回俺の抱いた印象だ。

 キョンは俺たちと変わらない常識を持った状態で『3年前』を迎えるも当時は特に何も無いまま通り過ぎ、その後も自分の身に何か宇宙的未来的超能力的な出来事が降りかかることもなく現在に至りやっとめでたく『異世界人』としてハルヒSOS団団員と出会った。世界は『3年前』を経てそれ以前とはあらゆる観点で異なっていたが、キョン含め大多数の誰もが幸いにも気づくことはなく変わらぬ日常生活を現在まで送っていたのである。こうは考えられないもんかね。

 もちろんここで「実は谷口やら国木田やら他の一般人も異変に気づいているのではないか」とか「キョンだけが実はアブナいクスリをやっていて可哀想なことになってるんじゃないか」などというユカイな陰謀論を開陳するつもりはないが、さまざま複雑な問題を削ぎ落してありていに言えば『"一般人"という異世界人』がキョンに与えられた役割なんじゃねーかって考えは今回ちょっとはアリのような気がした。

 逆を言えば俺たちの日常世界に『キョン』はいない。それは彼が涼宮ハルヒを中心に発生し展開した超自然的超科学的超現実的世界がいかに『常識』と異なっているかを喧伝する装置だからであり、ひとたび現実世界に彼を引き戻し放流してしまえばもう姿かたちは見えなくなってしまう。キョンハルヒなくして存在し得ず、そしてキョン涼宮ハルヒ的新世界を受け入れて"異なることの喧伝"をやめたとき、ハルヒもまたその形を失い消滅するだろう。

 

5. おわりに

 以上が『涼宮ハルヒの憂鬱』刊行20周年を機に再読しての感想になるわけだが、これだけ誰か一人にでも読まれたくないこっ恥ずかしい文章を書いたのも久し振りだ。ブログで書いておいて今さら何言ってんだという話だが。これが2023年に書く内容かよ......。

 それとは別にやはり読み返して良かったとは思う。よくある話で、昔に体験したことはどんどん思い出補正がかかっていくために記憶の中では最高のものだったはずが実際は驚くほどにたいしたものじゃなかった、なんてことは読書においてもきっと同じだろう。俺にとって今回一番の収穫は『涼宮ハルヒの憂鬱』が今読んでもえらく面白い小説だということがわかったということだ。

 今回を機にまた昔のように色んなジャンルの本を読みたくなった。『ハルヒ』に夢中になっている傍らで今まで素通りしてきた人気作は数えきれないほどあっただろうからな。改めてそういう意識でもって周りを見渡してみれば、実はそこに退屈な日常なんかはなくて新鮮で魅力的な世界が無限に広がってるに違いない。とりあえず手始めに、同作者の『学校を出よう!』でも読んでみるのもいいかもしれないと俺は思っている。